火曜日〜。


今日は火曜日。『あしたの、喜多善男』の日だ。
先週は風邪があまり良くなくて寝てしまって、録画したのをついこないだ見たのですがね。やっぱりあのドラマには期待するなぁ。


第2話の放送で、特に印象に残ったシーンがありまして。
母親に会うシーン…は勿論、色々考えて涙が浮かんでしまったのですけれど、その前。
善男が父親の墓参りに行き、その足で母親の住む団地を訪ねるまでのシーンが、何やらひどく象徴的だったなぁと感じたのです。


“11日後に死ぬ”と決めた善男は、(演じる小日向さんのムードや演出でそうは見せなくても)端的に言えば「死」そのもので、しかもその「死」はドラマティックでサスペンスフルな11日を過ごす「動く」「死」。
その「動く死」である善男が、父の眠る墓地に佇む。“墓地”は、もう決して動かない死、安らかで静かな、あるべき死の姿の象徴でしょうか。まず、この2種類の「死」が対比されます。
その後、母の住む団地に行くまでの間、道を歩く善男と大人に連れられた幼い子どもがすれ違います。(ベビーカーだったかも?) 子どもは言うまでもなく「生」しかも「輝くばかりの未来を背負った生」の象徴でしょう。すれ違うのはほんの一瞬ですが、対比としては十分だと思います。
そして団地に入っていく善男。ここに関しては自分の穿ち過ぎかもしれないのですが、団地が幾らか“物悲しげ”に描かれていて、この辺りを引用するまでもなく、これは善男そのものなのかなと思いました。生まれ育った場所であり、母親が待つ場所であり、それでも死のうとしている=自分にさよならしようとしている善男にとっては、別れを告げなくてはならない場所なのでしょう、と。


墓参りから団地に着くまでのシーンは3分程度だったと思うのですが、画面を通してそんなことまで考えてしまった自分が感受性豊かwなのか、それとも演出が素晴らしいのか。後者だと思うんですけどね。


今夜の第3話も楽しみにしています。